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1.アフリカ全体

どこかで耳にした事があるアフリカの歌

日本でもどこかで耳にしたことがある、アフリカの有名な歌(民謡・歌謡・童謡)を何曲か集めました。 様々なバージョンでカバーされている曲なので、原曲とは少し変わってきているものもありますが、誰が聴いても覚えやすい音とリズムです。 【マライカ MALAIKA】 1945年にタンザニア・ケニア発祥のスワヒリ語の歌です。 スワヒリ語の歌の中で世界で最も広く知られている歌の一つで、貧しい男性が隣村の美しい可憐な女性に恋し、彼女を「マライカ(天使)」天使と呼びながら思いを寄せる美しい歌です。様々な歌手にカバーされています。 ■Miriam Makeba- Malaika (Live Performance 1969) 南アフリカの女性歌手 ミリアム・マケバ(Zenzile Miriam Makeba)が1960年代にカバーし、『マライカ Malaika』は世界的に広まりました。   小野リサ 「Malaika」 【ワカワカ Waka Waka】 シャキーラがカバーした2010年に南アフリカで開催されたFIFAワールドカップの大会公式テーマソング『ワカワカ Waka Waka』が有名ですが、こちらも様々なバージョンでカバーされています。 原曲とされる楽曲とは、1986年にカメルーンの音楽グループ、ゴールデン・サウンズ(Golden Sounds/Zangaléwa)からリリースされた大ヒット曲『ザンガレワ(サンガレワ)』(Zangaléwa/Zamina mina)です。 ゴールデン・サウンズのメンバーは主に、当時カメルーンの大統領アマドゥ・アヒジョの警備隊所属の現役兵で、ミュージックビデオもそんなビジュアルです。 因みに、『ザンガレワ』とは、カメルーンのエウォンド語(Ewondo)で「誰がお前を呼んだ?」を意味だそうです。   ■Golden Sounds – Zangalewa : Version 2010 World Cup video edit 2010年ワールドカップ期間中に,カメルーンの全TV局で放映されtaミュージックビデオ     【バナハ Banaha】 コンゴ民主主義共和国 ルバの民謡です。「バナハ」とは果物の「バナナ」を意味するそうです。 Sisi, sisi, dolada, Yaku sine ladu banaha. (×2) Banaha, banaha, Yaku sine ladu banaha. (×2) Ha, banaha, Yaku sine ladu banaha. (×2) パイナップルの樹の下で ヤクがバナナを盛っている、おばさんの赤い帽子に バナナ、バナナ、ヤクは盛っている おばさんの赤い帽子に ああ、ヤクがバナナを盛っている おばさんの赤い帽子の中に   ■ Banaha (Soldier’s Song)- Missa Luba (Deluxe Editio)   ■ Banaha (SSA) – Russell Robinson 音楽教材になっているバージョン     チェッチェッコリ/チェチェコリ (Che Che Kule /Kye Kye kule) ガーナ アカン民族の伝統的な童謡で、世界中で人気があります。リーダーが掛け声をかけて、他の人がそれに合わせてエコーのように歌います。ジャンベ・ドラムがアフリカ特有のリズムを生み出し、それに合わせて様々なダンスをすることができます。 歌詞に意味はあまりないようで、「せっせっせーのよいよいよい….  」の様な感じらしいです。 ■ Che Che Kule (Kye Kye Kule) – Children’s Songs - Sing With Sandra     ■ 運動会チェッコリ玉入れ 日本ではガールスカウト/ボーイスカウトから広まったようです。

西アフリカの宝貝カルチャー

このブログを書いた発端は、アフリカの物に限らず、元々は宝貝が付いていた民具や装飾品の貝をわざわざ取りはずして、伝統的なものとして紹介する事に少し疑問があったからです。 最近、綺麗な宝貝が手に入った事もあり、西アフリカと宝貝の事を少しまとめてみました。 アフリカでの宝貝(カウリーシェル・子安貝)は様々な用途で使われてきました。 装飾としては古くより使われてきたのは、コンゴのクバの装身具や、カメルーンの内陸、エチオピア高地のオロモの背負い袋や容器などで、比較的内陸で多湿な限定的な地域だったそうです。内陸といってもカラハリ砂漠などの乾燥した地域では使われなかったそうです。 また、西アフリカでは交易を通してまず通貨として流通していき、その後、様々な装飾にも取り入れられました。     世界最古・最も広く使われた通貨、宝貝 宝貝の利用は紀元前16世紀から始まった古代殷王朝でみつかっています。黄色宝貝がハカに埋葬されており、財産として利用されたといわれます。西アフリカでは、14世紀にマリ帝国に訪れた探検家のイブンバトゥータが、宝貝が通貨として利用されている事を書いています。 17-18世紀に栄えたダホメー王国では、市場で宝貝がないと何も買えなかったそうです。 (ダホメー王国の宝貝についての詳細) 西アフリカで通貨として流通した宝貝は、モルジブ諸島からアフリカ経由でサハラ砂漠を横断し運ばれていったといわれます。 昨年アフリカに行った時ハウサの人が、ナイジェリア北の一部の地域では、貝殻が今でも地域通貨として使われているといっていて、実はその価値はまだ完全に失っていないようです。 宝貝の特徴と西アフリカでの通貨価値 きれいな白い貝殻は、通貨に必要なすべての特性を備えているといわれます。軽量で腐りにくく、取り扱いや輸送が簡単です。その形状は、即座に識別可能で、偽造が困難で、形状もサイズも均一に揃える事が出来て数えやすいです。     西アフリカで宝貝は、長い紐で40個ずつ束まとめられ、多額の支払いの場合、殻はバスケットに積み上げられました。 因みに、8世紀ころにアラブの商隊から西アフリカにもたらされた牛とと宝貝の交換レートは、大体このような感じだったようです。(牛は20世紀までの支払い手段、権力と富の象徴、今でも人気アイテムです。) 但し非常に大きな金額の場合、受け取った宝貝を運搬するのに、かなりの運搬(ポーター)費用が発生し、手に入れた貝を全て運搬費に使うこともあったそうで、そういった大規模の取引は、ハウサなどに代表される長距離交易を行う専門民族が行いました。 牛1頭=貝50束(40本×50束=2,000個) 奴隷一人=17世紀は貝1万個 奴隷の需要は時代とともに高まり、18世紀頃は貝15万個      交易に使われた宝貝 長い間宝貝は西アフリカ全体で流通し、銀貨・砂金・塩・金属のオブジェクト・腕輪のマニラ(Manilla)・布・ビーズなど、他の多くの通貨価値のあるものと共存していました。 また、ヨーロッパ人は、特定のアフリカの民族が小さな貝殻を好んでいることを知り、奴隷・金・象牙の取引に、貝殻の通貨を積極的に使用しました。 西アフリカでは長らく、こういった複数の通貨を使用することが一般的だったので、旧フランス領でフランを導入した後も通貨の統一に抵抗があったようで、しばらく宝貝はその価値を維持しました。 コンゴのクバ地域などでは、1940年代まで現役の通貨として使用されたといわれます。 通貨の併用が当たり前で、統一通貨を拒むあたり、多言語で多民族が共存するアフリカらしさを少し感じてしまいます。   宝貝、西アフリカの村での役割 小さな村では、外部との取引は長老たちの責任と特権でした。村人が生産した商品(過剰な穀物、養蜂からの蜂蜜、布、鍛造金属など)は外部の商人に販売され、収益は村の共通資金に保管されました。 高齢者は保管された通貨を使用して、地域社会のために道具、薬、牛などの必需品を購入しました。 村内での取引の多くは物々交換の形で行われ、通貨は殆ど使わなかったそうです。   宝貝文化はまだまだ続く 現代の西アフリカでは宝貝は通貨として機能していませんが、その文化の痕跡は残っています。ブルキナファソのワガドゥグーでは、貧しい人々にコインと宝貝を混ぜて渡す時があるといわれます。 ガーナの通貨「Cediセディ」は「宝貝」を意味するアカンの言葉で、1955年発行のガーナの20セディのコインには、宝貝が刻まれていました。   また、宝貝は丸みを帯びた曲線は妊婦のお腹を連想させ、生殖能力の象徴とされます。 貝殻のスリットは黒い瞳のように見えることがあり、邪眼を防ぐためにも使用されます。 装身具用のビーズとしてもよく使用され、ジュエリーに組み込んだり、髪に着けたり、彫像や仮面やバスケットを飾ったりします。 また、西アフリカの伝統的文化に欠かせない占いにも良く使用されます。 ドゴンの占い   異文化の価値観 日本ではなじみの薄かった宝貝ですが、地域が変われば価値も変わります。 海が遠い内陸の民族は、アフリカだけでなく宝貝を美しさ・豊かさの象徴として扱ってきました。 今ではただの貝殻という扱いが一般的だと思うのですが、その背景や歴史を知ると、宝貝を使っている様々な民族装飾も一味違って見えてくるかもしれません。     参考文献『貝の道』 参考サイト http://www.nbbmuseum.be/en/2007/01/cowry-shells.htm    

サハラに人が住んでいた頃の装身具

サハラ砂漠、かつては緑にあふれ、人も動物も住んでいた。   今から約1万年程前には、アフリカ全域にわたって私たちの直接の祖先である新人類が活躍し、後期石文化がみられたそうです。 大体その頃の、今から8000年~5000年前頃(諸説あり)は、地球の気候先導の影響で、今のサハラ砂漠周辺は湿潤化し、森林が育っていたといわれます。 今のサハラには人が住み易いとは言い難いのですが、この時期人々は野生動物の狩猟や牛の牧畜が営み、その状況は多くの壁画が残されています。     そして、今から5000年程前にサハラ一帯の砂漠化始まり、現在のサハラ以南のアフリカに人々は生活の場所を移していったといわれます。 丁度その頃、ナイジェリアの北部のジョス地方ではノック文明(NOK)が起こり、美しいテラコッタの頭象の数々、青銅器時代を飛ばした鉄器文化も確認されています。     古代の人の石の装身具 こちらの装身具はそんな時代の頃の物でしょうか、ニジェールの砂漠からみつかった石の装身具です。     ベージュピンクの細長い10cm程度の棒は古代水晶で、古代の人のピアスでした。(これは小さい方で、倍くらいのサイズもあります。)何か、ピックとしても使えそうです。 丸いベージュの石の方は、古代の石の貨幣を思い起こすようなデザインで風化したような質感、ペンダントにもなります。 グレーの石は逆に研磨してあり、端にギザギザを付けた簡単なナイフ式のペンダントです。 それぞれ形や質感も違いますが、どれも実用性と装飾性を兼ね備えた、美しい装身具です。     最後に 以前、サハラの砂漠化がなかったら、ヨーロッパの大航海時代はなかったかもしれない、というような記事を見たことがあります。確かに、そこに人が住み続けていたら全く違う歴史が生まれ、現在の世界の状況も大きく違いそうです。 気候変動というか、自然の大きい力というか、人はどんなに頑張ってもそれに逆らえず、それに沿ってのみ生かされる事を改めて実感します。 研究者によると、サハラの砂漠化と緑地化は23万年毎に繰り返されるそうです。 6000~8000年ほど前はサハラは豊かな牧草地だったわけですから、人類の歴史は丁度砂漠化し始めた頃と重なったのかもしれません。 これから先どこかの時代でサハラ砂漠に木々が育ち始め、森林が覆う土地に変わり、その時人類が存在しているのなら、今とは全く違う世界が広がるかもしれません。そして、その時代サハラの人はどんな装身具をしているのだろうと想像してみたくもなります。       参照:新書アフリカ史,  Fall of Civilization Podcast

一目でわかる!多様なアフリカの民族

アフリカの民族地図 人類学者のマークレオフェリックス(Marc Leo Felix)が編集した、ハーバード大学のアフリカの民族の地図です。 各色は人々の所属認識に基づいて色分けしてあり、大多数を構成する民族グループにほぼ対応しています。 この調査では、サハラ以南のアフリカには、地球上で最も民族的に多様な国の多くが含まれていることがわかります。 特に、西部アフリカと中央アフリカ全体に、非常に多くの民族がいる事を示しており、このようにビジュアルで見てもとても美しいです。   そして博士によると、この地図を見る時に、留意する事が3つあるそうです。 ①言語と民族の多様性はよく連携する。 必ずではないが、言語はあらゆる社会的コミュニティの基本的で、民族性は多くの場合、コミュニティーの性質と似ています。   ②民族のアイデンティティは柔軟。 特定の人は、彼または彼女が交換して使用する複数の民族的アイデンティティを持っており、それは全世界に共通します。   ③民族的アイデンティティーは変化する。 その一つの原因に、経済的困難、身体的不安、政治紛争の際に、民族的アイデンティティが狭くなることがあります。。例えば、2002年のハーバード大学の研究が指摘では、ソマリアの民族的アイデンティティは、その国の飢饉と内戦の後でかなり狭まりました。 ただ、そういった紛争や資源不足がサハラ以南のアフリカの民族の多様性を引き起こしているわけではないです。例えば、中国の飢饉と内戦は、世界最大の民族グループの1つである漢民族のアイデンティティを狭めることもなく、インドネシアは近年発展していますが、民族が均一化しているわけではないです。 サハラ以南のアフリカに関しては、民族の多様性の多くは地理に関連している可能性が高いようです。特に人口がまばらな地域は、多くの場合、民族的に多様性があります。各コミュニティー間には地理的距離があり、数世紀前より進行している民族の均一化に時間がかかったといわれます。 博士のまとめ 現代のこの多様性は、たとえば標準化された国家教育の導入には困難をもたらす可能性がありますが、良い点も多いです。 非常に民族的に多様な国は、1つのグループが他を支配するのに十分な大きさがないため、民族紛争に対して抵抗力があります。 そして、すでに均一化してしまっている国と違い、このような多様性は、簡単にアーカイブできる時代にを背景に、今後も継承しやすくなっているともいえる。   感想 Felix博士の”経済的困難、身体的不安、政治紛争の際に、民族的アイデンティティが狭くなる”という指摘は、まさに今、国境・コミュニティを閉ざしていく方向に向かっている状況とリンクしてしまいました。 ここ2か月、コロナの自粛が始まってから、アフリカを中心にビデオアーカイブをよく見ています。仮面ダンスなどは木製以外も結構ありますし、儀礼用品や民具だけでなく、建築や音楽や踊りもとても多様で、まだまだ知らないことも沢山あり、とても興味深いです。 アフリカは元々無文字の社会も多く、それまでは伝統的な生活続ける事で口承で伝えられ、記録を必要としなかった文化も多いです。 しかし、今時代が急激に変化しており、伝統的な生活をそのまま続けていくのは困難があると思います。 博士が言うように、せっかく簡単に記録・保存できるこの時代までしっかり伝統をリアルに守ってきているのだから、出来るだけアーカイブを行い、伝統的な姿や考え方などが残る事を期待します。 こういった多様さはアフリカだけでなく、色々な地域にあると思います。(インドネシアなどもカラフルなモザイクになりそう) そしてその中には、これだけの多様な文化や民族同士が何千年も共存してこれた、根本的な秘訣があるかもしれないです。   参照サイト:https://www.vox.com/2015/11/10/9698574/africa-diversity-map ※地図のデータは1959年の人類学者ジョージ・マードックの民族誌(1595年)と、ハーバート大学の研究(2002)が基になっている。  

南アフリカのドキュメンタリー Nai:The Story of a !Kung Woman

ボツワナ・ナミビア・アンゴラ・ザンビアにまたがって住んでいるサン(San)人の中の一つのグループの一つ、クン(!Kung又はJu/hoansi)のある女性の約30年の綴ったどドキュメンタリーです。   ※サン人 クンの人々に関しては、私は良く知らないのでリンクを着けておきます。が、地図は拝借させてもらいました。(見難くてすみません。) この作品、1980年に出版されているようで、1951年から27年かけて撮影されてるようです。 古来より続けてきた伝統的な生活から、1970年に政府政策よってサンの人々が特別居留地区に移動し、欧米の人の影響を受けながら、約30年間に環境と生活がどんどん変化する女性の人生が描かれています。ある女性の少女の頃から30歳半ばまでの肖像という感じです。 時間をかけてとても丁寧に撮られていて、とても良かったです。(かなり有名な映画だと思うのですが、私は最近見ました。画面を見てるだけでも大体わかります。) 変化は止められない、ここにきてまた世界中で変化していきそうです。何とも感慨深い作品です。     ■Nai: The Story of a !Kung Woman (大体1時間くらい 英語字幕なし) Marshall, John, 1932-2005; Documentary Educational Resources (Firm) https://archive.org/details/naithestoryofakungwoman/naithestoryofakungwomanreel2.mov://   同じ監督の別のショートフィルムの、「Lion Gme」も可愛いです。子供たちがライオンハンティングゲームをしている様子で、こうやって大人になるまでに、段々と狩りを覚えていくのでしょうか。(約3分半) https://archive.org/details/liongame_201609   ■Nai:The Story of a !Kung Woman プレビュー動画  

ロビ Lobi

※過去の動画や画像がありますが、現在は違う状況です。    住んでいる場所 ロビはブルキナファソ南東・コートジボワール北東         Art and life in Africa map      ざっくりヒストリー ロビは現在のガーナから1770年頃にブルキナファソ南部に移住し、その多くは国境を越えて現代のコートジボワール北東部に移り、また一部はコートジボワールからブルキナファソ南部に戻ってきたりしました。 移動の理由の一つには、植民地時代の奴隷狩りから逃れる為であったといわれます。 かつて、ロビは自分たちのコミュニティ外からの政治的権力に抵抗した人々として有名でした。ロビの村はそれぞれ基本的に独立しており、ロビ全体での政治的なまとまりはありませんが、フランスの植民地化には強い抵抗を示してきたといわれます。 相手は銃を持っていたと思いますが、弓矢で勇敢に戦ったともいわれます。        生活 ロビは主に、キビ、モロコシ、トウモロコシを耕作する農業を営んでいます。 男性は通常、畑の開拓と植栽の準備を担当し、女性は種蒔きと収穫のほとんどを行います。また、農業の合間に男性も女性も手工芸品を作り、地元の市場で販売します。家畜や牛の飼育も行い、その一部は結婚の持参金や罰金の支払い、信仰の供物として使用されたりします。 ロビは古来より狩猟中心の生活を続けていましたが、銃の普及により獲物が減少し農業中心の生活に移行してきたといわれます。  Society of African Missions の動画リンク  1950年頃の様子のようで、現代の様子ではありません。少し上から目線も感じますが、当時の様子、生活の道具、後半に葬儀の様子など見る事が出来ます。        コミュニティー ロビの村は点在して広がっており、しばしば他の民族エリアと混ざり合っています。きっちりと地理的に区別することは難しいです。また、個々の村に存在するティラ(神の使者)同士の提携により、地理的に離れている村でも同じコミュニティーとしてとらえる事もあります。 宗教的な占い師はコミュニティの長として認識され、色々な決定事項・道徳の規範など、村の住民は基本的にそれに従って生活していきます。各村は基本的に独立しているので、ある村では禁止されているものが別の村では大丈夫だったりと、村ごとのルールには特徴があります。   ■ロビの村に旅行に行かれた方の、ブログ記事を見つけました!その時、村の方から聞いたロビの説明をまとめた記事がとても良いのでリンクをいれます。これだけでなく、アフリカの色々な記事がとても良くまとまっていて、素晴らしい!最近のロビの様子も旅行記から伺えます! →ブログ:アフリカに「おもいやり」のロビの基本情報ページ →ブログ:アフリカに「おもいやり」のロビの村旅行記①ページ →ブログ:アフリカに「おもいやり」のロビの村旅行記②ページ 四角底のストローバスケットはこの地域の形だったのか!      神話・精神世界 ロビはかつて彼らと神と一緒に理想の楽園に住んでいて、何も望んでいないと信じていました。しかし、人々の数が増加し始めると男性は女性をめぐって互いに戦い始め、その結果、神は人々に背を向けてしまいました。 しかし、神は人々が完全にいなくなることを望まなかったので、人々を見守る使者としてティラ(thila)を人々の世界に送りました。ティラは自分のメッセージ・要求・禁止事項を、占い師を通して人々に伝えます。 また、ティラの世界では男性の上に多数の自然霊が存在するといわれます。ロビには自然霊とティラを難なく区別できるといいますが、これは外部の人には分かりずらい事でもあります。      作品 (木彫・ブロンズ・陶芸・建物・音楽など) ■木彫 ロビは毎日使用される道具から、宗教的な理想を具現化する人物まで、木彫品を作ります。 その一つに神話に基づいた精神世界を現す「バティバ  Bateba 」と呼ばれる木彫の人形があります。 ロビの人々の精神的世界観には、創造神の次に「ティラthila」 と呼ばれる目に見えない超自然の精霊が存在しています。「バティバ 」は「ティラ」の助手と考えられ、祭壇に祀られた瞬間から命を授かり、人間を妖怪や病から守り、富や健康、豊作、結婚、出産などの幸福をもたらすといわれています。 「バティバ」は様々な種類があります。 動物は基本的には「バティバ」の助手役で、鳥、ガゼル、キリン、カバ、ゾウやカメレオンなどがあります。造形はシンプルですが、この動物には生命が吹き込まれたような存在感があります。 また、「バティバ」は「ティラ  thila」(超自然の精霊) の祭壇に配置され、互いに通信し、魔物と戦うことができる生物として認識されています。 ロビの祭壇は家の奥の暗い場所に大体ありますが、「バディバ」は時々魂だけ外に外でお出かけするそうです。(リフレッシュですかね?)      神と木彫と人の関係をまとめると、大体こんな感じでしょうか? 「神」 ↓ 超自然霊「ティラ」(神の使い) ↓↑ 交信 ←占い師 間を取り持つ 祭壇に置かれた木彫り「バディバ」 → 時々、祭壇の外に外出する ↓ ←占い師 間を取り持つ ロビの人々  富や健康、豊作、結婚、出産などの幸福をもたらす   ■多種多様な護符 妖怪や病気、攻めてくる敵から身を守る為の護符 富や健康、豊作、結婚、出産などの幸福をもたらすもの   ■美しい建物やインテリア   ■音楽   reference:The University of Iowa Stanley Museum of Art , Art &Life in Africa