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装身具・アクセサリー

ヘビの貨幣や装身具 ブルキナファソの民話より

アフリカの多くの国では、ヘビは人間にとって大きな脅威となってきました。 人々は藪の中や倒木の下に潜み森や草の中を見えないように這っているヘビに日々遭遇し、一瞬にして命を失うことも少なくありませんでした。 そのため多くの人々の間でヘビは、非常に近くにいる、生まれ変わる生命力が強く(脱皮)、生き物の命を奪う、恐れるべき動物として神格化されてました。   ブルキナファソ南西からコートジボワール北東に住むロビ(Lobi))・ガン(Gan)の人々は、動物神話に由来するお守りや儀式の対象物を沢山作ってきた民族です。 その中でもヘビのモチーフは、彼らにとって特別な存在です。 ※ガンとロビはとても近い民族で、ガンはロビのサブグループともいわれます。 どちらの民族もガーナ→ブルキナファソ⇔コートジボワールを移動した、分散的に住む民族です。   ロビ・ガンには様々な神話や寓話がありますが、その中にヘビにまつわるガンの寓話があります。 ヘビの腕章と民話 ブルキナファソ南部からコートジボワール北東に住むガンの人々の小さな村では、田植えの忙しい季節は、まだ暗い早朝から家族みんなで農作業を行います。 やっと日が昇り明るくなり、みなで休息をとろうとしたその時、皆はガンの村の酋長の末っ子がいないことに気付きました。 農民たちは手分けして背の高い草や耕されていない畑を必死に探しました。 やがて、茂みのそばに座っている少年を見つけましたが、彼の足に巻きついているものを見て皆が血の気が引きました。 それは毒を持つ蛇パファダーが、その太い体を少年の膝の上に乗せていたからです。     村人たちは蛇を刺激しないようにじっとしていましたが、蛇は大きな声で鳴き、大きな体をふくらませて威嚇しはじめました。 村人は皆危険を感じていました、それはこの蛇は、長い毒牙を瞬く間に突き出して日没には人を殺してまう毒を持っているからです。 酋長は息子に「動くな」と言いながら、他の人たちにゆっくりと後ろに下がるように指示しました。 そして、自分の上腕部に装着した真鍮製の大蛇のバンドを握ると、息子はそれに応えて足首に巻いた同じ様な小さなバンドに触れました。 息子は「彼(ヘビ)も僕のバンドが好きです」と言うと、ヘビは納得したような落ち着いた様子で、小さな三角の頭を少年のバンドに当てました。 すると数分後、ヘビはスルスルと逃げていき、少年は立ち上がり膝を拭き払い無事事なきを得ました。   ヘビ除けとして身に着けられた ロビ・ガンの腕章・腕輪・指輪   この奇跡的な話は瞬く間に村中に広まり、古い伝統は新たな活力とより信仰を呼び起こしたといわれます。 動物は単なるシンボルではなく、現世とあの世をつなぐ媒介者でもあり、神の使いの精霊とされる信仰も多いです。 特にヘビはロビ・ガンの人にとっては上位のトーテムとされています。     ロビ・ガンの人々は真鍮やブロンズ製の作品にヘビのモチーフの装飾y品・護符に加え、象徴的な通貨や祭壇に供える人形なども沢山作りました。 彼らの装飾品はより生き生きとした様式化されたものであり、時には抽象的な要素である複数の頭を持つものもありました。 ガン人はこれらの装飾品を家の魔除けにも使い、戦士やハンターは戦いの際の護符として、身につけていました。 またヘビは神の象徴とされ、蛇が大地に巻きついている姿は大地が崩れないようにする守り神ともいわれます。   信仰が物語を生むのか、それとも物語が信仰を刺激するのか 卵がさきかニワトリが先かのように、その答えは両方の様な気がします。 時折、勇気ある瞬間の物語が、伝統的な民間伝承と融合し、古い信念をより強化し神格化し、時には復活させることもあります。 ガンの酋長の息子の話は、蛇が恐れるべき動物であると同時に、神聖なシンボルであり、人々を守る存在であることを象徴しています。 また、最も危険な敵が最も強力な味方になり得ることを示す西アフリカで生きる知恵を含んだ物語のようにも思われます。 今は錆に覆われたこれらの鉄のオブジェクトは、そんな物語や知恵を視覚的に生活に取り入れた、生きた作品といえそうです。      

西アフリカのお守り「グリグリ」GRIS-GRIS

グリグリGRIS GRISとは? グリグリ(Gris-Gris)は、アフリカを起源とするブードゥー信仰のお守りで、着用者を悪いものから保護したり、幸運をもたらすと信じられるお守り(護符)です。 アフリカ大陸からアメリカ大陸にかけて広い地域で信じられているお守りで、西アフリカから奴隷貿易を通じてハイチを中心としたカリブ海地域に広まり、キリスト教徒融合したヴードゥー教のお守りとして現在も使われています。 祈願の内容も様々で、旅の安全祈願・避妊や懐妊祈願・勝利祈願などいろいろありますが、一番よく身に着けられる理由は旅の安全祈願だそうです。 西アフリカで使用されていた元々のグリグリは、小さな革の袋の中に、ハーブ、オイル、石、骨、髪、爪、その他の身の回りのものを入れ、すべての要素が揃ったら神の名によって祝福されるというお守りで、シャーマンに祈祷してもらい儀式的に身に着けるものとされています。 そして西アフリカでは、11世紀以降のイスラム教の広まりとともに、グリグリの中身はイスラムの精神的指導者から祈祷して貰い記号化したコーランの紙を入れたものが多くなっていきます。 その始まりは、現在のガーナ北部に12世紀に起こったダグボン王国 (Kingdam og Dgbon 11C-20C)から始まったといわれ、 塩やコラの実や奴隷の交易で栄えた王国で、2代目の王様の統治時にイスラム教が正式に採用されたといわれます。 また丁度ダグボン王国が栄えた同時期に、北にモシ王国・さらに北西にバンバラ人が起こした強大なマリ帝国が同時期に栄えました。其々の国がイスラム教を取り入れたことで、13~15世紀に西アフリカに広く民族の壁を越えた民衆の間にもイスラム教が広まり、それとともにグリグリ信仰も広まったといわれます。   コーランの入ったのグリグリ 西アフリカのトゥレグ・フラニ・ウォダベなどの交易や遊牧など移動を生活の生業とする人々は、非常に多くの人達がお守りを身に着ける主観を持っています。 トゥアレグのグリグリは記号化したコーランの入ったもので、何世紀にもわたり培われた西アフリカの民間信仰・イスラム化・トゥアレグのフォルム・北アフリカの信装飾が融合したハイブリットな形が特徴的で、様々な要素がすっきりしたデザインに落とし込まれているところも素晴らしい伝統的な護符です。   また、トゥアレグと近い場所にエリアに住む遊牧民のフラニやウォダベの遊牧民の間では、骨や石や金属などの異素材はグリグリと一緒にジャラジャラつける着け方で、ヴードゥー教の要素をメインに革の中身にコーランを入れる仕様が多いです。     セネガルのグリグリ セネガルではより生活に身近な願掛けお守りとして、グリグリは人々の実生活に幅広く根付いています。 身に着け方もベルト、ブレスレット型など様々で、旅行安全祈願、避妊又は懐妊祈願、レスリングの勝利祈願などの目的で、夫婦やレスラーまで幅広い人々に身に着けられます。最近では有名なマラブー(セネガルでのイスラム教の指導者)に、オンラインで中身を祈願してもらうお守りものあるそうで、有名なマラブーに頼むとが最低料金が200万CFA(約2,950ドル)を超えることもあったり、売れっ子のマラブーは価格が上昇するそうです。 また、懐妊祈願のグリグリは50ドルくらいの最低料金に子供が出来たら成功報酬というパターンもあるようです。 ※セネガルのレスリングの素敵なサイト  https://maptia.com/christianbobst/stories/the-gris-gris-wrestlers-of-senegal   セネガル相撲の動画 in Mali  (いつか、みてみたいです~) 因みに、セネガルのものだけではないのですが、西アフリカで広く見られる革のブレスレットもグリグリの一つ、若しくはグリグリ由来の形のようです。   カリブ地域に広まったヴードゥー教のグリグリ 奴隷貿易とともに西アフリカからハイチを中心としたカリブ地域に広まったヴードゥー教はキリスト教徒融合していきますが、グリグリおお守り文化はまだ色濃く残っています。       まとめ アフリカには3000を超える多くの民族が住み、様々な護符といわれるものが古来より存在してきました。 個々の民族特有の形や意味を持つお守りや願掛け人形もありますが、様々な民族に共通する信仰によって自然の広まったお守りもあります。そこには、人間が決して住み易いとは言えない場所も多いアフリカ大陸の気候や環境の中で、其々の民族の文化を尊重しながらも、多民族が共存しながら互いに幸せを享受し合う相互扶助の精神が表れている様に思います。 アフリカの近代以前の歴史は文字に残ったものは少なかったけれども、様々な民族の関わり合いの中で言葉や風習や技術や形が相互に作用しあい、アフリカ大陸の文化や文明がとてもダイナミックに展開されてきたことが、一つのお守りからも伝わってきます。 アフリカのモノは見ただけで伝わる力強いものも多いですが、それは今までアフリカ大陸で展開されてきたなダイナミックな歴史と文化の文脈が、デザインを通して伝わってきている様にも感じます。 そして、文字を持たなかった地域が多かったが故のアフリカの形やデザインは、逆に、文字を介せずとも伝わる形の表現を創造し、それが今日アフリカ美術の高い評価に繋がるようにも思います。

西アフリカの宝貝カルチャー

このブログを書いた発端は、アフリカの物に限らず、元々は宝貝が付いていた民具や装飾品の貝をわざわざ取りはずして、伝統的なものとして紹介する事に少し疑問があったからです。 最近、綺麗な宝貝が手に入った事もあり、西アフリカと宝貝の事を少しまとめてみました。 アフリカでの宝貝(カウリーシェル・子安貝)は様々な用途で使われてきました。 装飾としては古くより使われてきたのは、コンゴのクバの装身具や、カメルーンの内陸、エチオピア高地のオロモの背負い袋や容器などで、比較的内陸で多湿な限定的な地域だったそうです。内陸といってもカラハリ砂漠などの乾燥した地域では使われなかったそうです。 また、西アフリカでは交易を通してまず通貨として流通していき、その後、様々な装飾にも取り入れられました。     世界最古・最も広く使われた通貨、宝貝 宝貝の利用は紀元前16世紀から始まった古代殷王朝でみつかっています。黄色宝貝がハカに埋葬されており、財産として利用されたといわれます。西アフリカでは、14世紀にマリ帝国に訪れた探検家のイブンバトゥータが、宝貝が通貨として利用されている事を書いています。 17-18世紀に栄えたダホメー王国では、市場で宝貝がないと何も買えなかったそうです。 (ダホメー王国の宝貝についての詳細) 西アフリカで通貨として流通した宝貝は、モルジブ諸島からアフリカ経由でサハラ砂漠を横断し運ばれていったといわれます。 昨年アフリカに行った時ハウサの人が、ナイジェリア北の一部の地域では、貝殻が今でも地域通貨として使われているといっていて、実はその価値はまだ完全に失っていないようです。 宝貝の特徴と西アフリカでの通貨価値 きれいな白い貝殻は、通貨に必要なすべての特性を備えているといわれます。軽量で腐りにくく、取り扱いや輸送が簡単です。その形状は、即座に識別可能で、偽造が困難で、形状もサイズも均一に揃える事が出来て数えやすいです。     西アフリカで宝貝は、長い紐で40個ずつ束まとめられ、多額の支払いの場合、殻はバスケットに積み上げられました。 因みに、8世紀ころにアラブの商隊から西アフリカにもたらされた牛とと宝貝の交換レートは、大体このような感じだったようです。(牛は20世紀までの支払い手段、権力と富の象徴、今でも人気アイテムです。) 但し非常に大きな金額の場合、受け取った宝貝を運搬するのに、かなりの運搬(ポーター)費用が発生し、手に入れた貝を全て運搬費に使うこともあったそうで、そういった大規模の取引は、ハウサなどに代表される長距離交易を行う専門民族が行いました。 牛1頭=貝50束(40本×50束=2,000個) 奴隷一人=17世紀は貝1万個 奴隷の需要は時代とともに高まり、18世紀頃は貝15万個      交易に使われた宝貝 長い間宝貝は西アフリカ全体で流通し、銀貨・砂金・塩・金属のオブジェクト・腕輪のマニラ(Manilla)・布・ビーズなど、他の多くの通貨価値のあるものと共存していました。 また、ヨーロッパ人は、特定のアフリカの民族が小さな貝殻を好んでいることを知り、奴隷・金・象牙の取引に、貝殻の通貨を積極的に使用しました。 西アフリカでは長らく、こういった複数の通貨を使用することが一般的だったので、旧フランス領でフランを導入した後も通貨の統一に抵抗があったようで、しばらく宝貝はその価値を維持しました。 コンゴのクバ地域などでは、1940年代まで現役の通貨として使用されたといわれます。 通貨の併用が当たり前で、統一通貨を拒むあたり、多言語で多民族が共存するアフリカらしさを少し感じてしまいます。   宝貝、西アフリカの村での役割 小さな村では、外部との取引は長老たちの責任と特権でした。村人が生産した商品(過剰な穀物、養蜂からの蜂蜜、布、鍛造金属など)は外部の商人に販売され、収益は村の共通資金に保管されました。 高齢者は保管された通貨を使用して、地域社会のために道具、薬、牛などの必需品を購入しました。 村内での取引の多くは物々交換の形で行われ、通貨は殆ど使わなかったそうです。   宝貝文化はまだまだ続く 現代の西アフリカでは宝貝は通貨として機能していませんが、その文化の痕跡は残っています。ブルキナファソのワガドゥグーでは、貧しい人々にコインと宝貝を混ぜて渡す時があるといわれます。 ガーナの通貨「Cediセディ」は「宝貝」を意味するアカンの言葉で、1955年発行のガーナの20セディのコインには、宝貝が刻まれていました。   また、宝貝は丸みを帯びた曲線は妊婦のお腹を連想させ、生殖能力の象徴とされます。 貝殻のスリットは黒い瞳のように見えることがあり、邪眼を防ぐためにも使用されます。 装身具用のビーズとしてもよく使用され、ジュエリーに組み込んだり、髪に着けたり、彫像や仮面やバスケットを飾ったりします。 また、西アフリカの伝統的文化に欠かせない占いにも良く使用されます。 ドゴンの占い   異文化の価値観 日本ではなじみの薄かった宝貝ですが、地域が変われば価値も変わります。 海が遠い内陸の民族は、アフリカだけでなく宝貝を美しさ・豊かさの象徴として扱ってきました。 今ではただの貝殻という扱いが一般的だと思うのですが、その背景や歴史を知ると、宝貝を使っている様々な民族装飾も一味違って見えてくるかもしれません。     参考文献『貝の道』 参考サイト http://www.nbbmuseum.be/en/2007/01/cowry-shells.htm    

サハラに人が住んでいた頃の装身具

サハラ砂漠、かつては緑にあふれ、人も動物も住んでいた。   今から約1万年程前には、アフリカ全域にわたって私たちの直接の祖先である新人類が活躍し、後期石文化がみられたそうです。 大体その頃の、今から8000年~5000年前頃(諸説あり)は、地球の気候先導の影響で、今のサハラ砂漠周辺は湿潤化し、森林が育っていたといわれます。 今のサハラには人が住み易いとは言い難いのですが、この時期人々は野生動物の狩猟や牛の牧畜が営み、その状況は多くの壁画が残されています。     そして、今から5000年程前にサハラ一帯の砂漠化始まり、現在のサハラ以南のアフリカに人々は生活の場所を移していったといわれます。 丁度その頃、ナイジェリアの北部のジョス地方ではノック文明(NOK)が起こり、美しいテラコッタの頭象の数々、青銅器時代を飛ばした鉄器文化も確認されています。     古代の人の石の装身具 こちらの装身具はそんな時代の頃の物でしょうか、ニジェールの砂漠からみつかった石の装身具です。     ベージュピンクの細長い10cm程度の棒は古代水晶で、古代の人のピアスでした。(これは小さい方で、倍くらいのサイズもあります。)何か、ピックとしても使えそうです。 丸いベージュの石の方は、古代の石の貨幣を思い起こすようなデザインで風化したような質感、ペンダントにもなります。 グレーの石は逆に研磨してあり、端にギザギザを付けた簡単なナイフ式のペンダントです。 それぞれ形や質感も違いますが、どれも実用性と装飾性を兼ね備えた、美しい装身具です。     最後に 以前、サハラの砂漠化がなかったら、ヨーロッパの大航海時代はなかったかもしれない、というような記事を見たことがあります。確かに、そこに人が住み続けていたら全く違う歴史が生まれ、現在の世界の状況も大きく違いそうです。 気候変動というか、自然の大きい力というか、人はどんなに頑張ってもそれに逆らえず、それに沿ってのみ生かされる事を改めて実感します。 研究者によると、サハラの砂漠化と緑地化は23万年毎に繰り返されるそうです。 6000~8000年ほど前はサハラは豊かな牧草地だったわけですから、人類の歴史は丁度砂漠化し始めた頃と重なったのかもしれません。 これから先どこかの時代でサハラ砂漠に木々が育ち始め、森林が覆う土地に変わり、その時人類が存在しているのなら、今とは全く違う世界が広がるかもしれません。そして、その時代サハラの人はどんな装身具をしているのだろうと想像してみたくもなります。       参照:新書アフリカ史,  Fall of Civilization Podcast

装身具とトゥアレグの社会

トゥアレグの歴史は古く、千年以上サハラを交易してきた民として知られていますが、いつどこから来たのか、そのルーツははっきりとはわかっていません。 通説で言われている事は、彼らはベルベル人の系列で、言語はタマシェク語(Tamachek)を話、その表音文字のティフィナグ文字(Tifinagh)を看板や標語などで現在でも使っています。 また、古代リビアのルーツを持っているといわれ、トゥアレグは紀元前5世紀にギリシャの歴史家ヘロドトスによって記録されています。(そういえば、カダフィの元でトゥアレグ戦士として戦ってました。)     現在、ほとんどのトゥアレグはある程度のイスラム教を実践していますが、彼らは多くのイスラム以前の伝統を守っています。 その一つに、女性がある程度自由を持っている社会的システムがあります。 コミュニティの決定事項には女性も参加しますし、家系と財産の継承も母系を介して行われます。 女性はテントや動物などの財産を所有し、離婚後の生活も保証されるようで、離婚後は家族でパーティーでお祝いをするようです。(財産を持って帰ってくるからでしょうか?) また、女性の結婚前の生活も、社会とプライバシーのルールを守る限り複数の恋人を連れて歩けたりと、比較的自由があり婚期も遅めだそうです。 ヘアスタイルやファッションへの美意識もとても高く綺麗な女性が多いですし、ジュエリーも女性の方が沢山身に着けます。   伝統的なトゥアレグ社会では、人前では男性は頭と顔をベールで覆い、女性は頭にはベールを被るものの顔は隠しません。 ベールの着け方はイスラムを取りいれる以前の伝統で、砂漠の砂避けとか、悪霊から身を守る為もあるとのこと。 理由はどうであれ、砂漠に映るその誇り高い”青いベールの姿”は非常に美しく、それは多くの人を魅了します。何千年もの時を経て、それが今に残るのは頷くばかりです。     そして、このトゥアレグの社会の有りよう、道具や装身具にも現れている気がします。 こちらのトゥアレグの錠前は、女性の鞄に付けるものです。 始めは女性の鞄用?と思いましたが、女性を取り巻くトゥアレグの伝統社会を知ると、少しその社会を物語っている気がしました。     こちらの鍵は全て手で作ってあり、実際使えます。 やはりトゥアレグの職人集団のイナダン(Inadan) は凄いですね。(因みに、イナダンとトゥアレグのルーツは違うといわれます。) 開け方は下の動画で、鍵の裏にはティフィナグ文字も少し刻まれています。 弧を描くような柄は月を表すといわれ、女性の装身具によくみられます。※但し柄の由来は諸説あります。     現代ではそういったトゥアレグ独自の社会的な伝統も徐々になくなってきているといわれます。特にイスラム過激派のアフリカへの影響は、保守的なイスラムの生活スタイルへの移行につながっているといいます。 何千年と続けてきた美しい文化、有形の物だけでなく、その根底にある伝統的な文化や社会が消えてしまうのは少し寂しい気がします。         参照:ART BEING OF TUAREG , The Tuareg https://www.dailymail.co.uk/news/article-3131511/Sex-Sahara-Striking-photographs-mysterious-Islamic-tribe-women-embrace-sexual-freedoms-dictate-gets-divorce-don-t-wear-veil-men-want-beautiful-faces.html http://www.bradshawfoundation.com/tuareg/index.php

トゥアレグクロスの作り方   Making of the Tuareg cross

トゥアレグクロスは、トゥアレグの人々が住む地域ごと(町ごと)のシンボルマークです。 元々は、父から息子に一人前の大人になった証として渡されるもので、トゥアレグの男子はサハラの交易の旅に出る時に、一人前の男性として認められるそうです。(意味は ”son, I give you the four direction of the world because we do not know where you will die” ) 現代では主に工芸品として作られ、トゥアレグの中では女性が装飾として付ける事の方がが多いようです。 トゥアレグクロスは21種類あり、1970年代頃から職人によって下のようなセットを作り始めたようです。 ※参考文献 「ART BEING TUAREG」     トゥアレグクロスはイナダン(Inadan)といわれる職人集団によって、ロストワックスで型取りしてから柄を彫って作られます。 クロスの彫柄は家紋のような柄を受け継ぎながら、職人アレンジも加えられていたようです。 このイナダン軍団はトゥアレグとはまた違う金属加工・木工・皮革加工などの血族職人集団で、トゥアレグから注文を受け彼らの装身具や身の回りの道具などを作っていました。   トゥアレグクロスの中で一番有名なものが、アガデスクロスで、アガデスの町(地域)のシンボルマークです。 アガデス(Agadez)はいまは各国に分散しているトゥアレグの総本拠地で、ニジェールの世界遺産になっているサハラ砂漠に近い街です。     こちらはアガデスクロスを鋳造している動画と、叩いてる動画です。     シンプルな道具を使い、昔ながらの方法で作られています。   ついでに、下は西アフリカの金属加工職人の本「Legacy」のプロモーション動画です。 西アフリカの金属加工の風景は本当にこんな感じした。 西アフリカには、トゥアレグだけでなく他にも素晴らしい職人が沢山います。