CATEGORY

4.アフリカンアート

アフリカのヘアスタイルと床屋の看板

アフリカの長く豊かなヘアスタイルの歴史 アフリカの髪型のルーツは紀元前のエジプト時代にまで遡るといわれ、様々な民族によって何世紀にもわたり受け継がれたスタイルがあります。 初期のアフリカ文明では、ヘアスタイルは人の家族の背景、民族、社会的地位を示し、それはアイデンティティを現してきたともいわれます。 現代でもアフリカでは理髪店や美容院が多く、髪型を整える為に時間を費やし、髪に関する美容代の割合が比較的高いともいわれます。 西アフリカの街の床屋 ナイジェリアの写真家であるアンドリュー・エシエボ(AndrewEsiebo)は、西アフリカの7か国(ベニン、コートジボワール、ガーナ、リベリア、マリ、モーリタニア、セネガル)を旅して、街の中で床屋が現在どのように機能しているかを確認し、サロンの美しさを写真で記録しました。     エシエボは次のように説明しています。 理髪店は、人々が家や公共の場で、政治や恋人さえも含めて、話せないことについて話し合うための親密な場所です[…]さまざまな分野の人々がさまざまなクラスの人々が集まる数少ない場所の1つです。 、ミックス[…]彼らのサインは、しばしば光沢のある色で手描きされ、道具や男性のヘアカットの奇妙な複製であり、伝統と現代性の共存を反映しています。     床屋の中には比較的現代風のものもあれば、シンプルな形態もありますが、ほとんどの床屋は、黒人の文化、スポーツ、音楽のアイコンの写真で飾られることが多いです。 エシボによると、スタイルの多くと、そのように髪をカットすることを選択した個人的な感覚は、国・文化・政治の枠組みを超えるといいます。 そして、顧客は流行のスターやアイドルと同じ髪型を望むことが多く、理髪師はその要望に応えます。   床屋の看板とアーティスト 理髪店は、外側に手描きの看板が釘付けになっているシンプルな店は自分で看板を作ることもありますが、多くの場合、独学の看板アーティストによって木製のパネルに描かれています。   このような看板は、1930年代から1950年代にかけて都市部でサービスを宣伝するために最初に登場し、その後村ままで普及していきました。 小さな小屋もありましたが多くの場合、野外にハンドル付きの携帯用看板を吊るし、椅子と鏡を設置し、床屋をオープンしました。 看板はしばしば最新のヘアスタイルを提示します。 アメリカの大衆文化の影響は、「ボーイング」「フォード」などの名前のついたアフリカの現代的なヘアスタイルを生みトレンドを維持してきました。   美しい剃り込みの美学 アフリカの床屋の看板は横向き絵が多く、美しい頭の形と剃り込みのラインを強調します。   現代では、印刷ポスター、モダンスタイルの建築の出現により、アーティストによる床屋の手書き看板は少なくなりました。 しかし、壁に直描きのお店はまだ健在で、このようなお店はゲームや携帯電話サービスなど追加のサービスも提供しながら、人々が集まり交流する身近な場所であり続けています。     西アフリカの新しい美容ファッションカルチャー 髪型だけでなく昔より美容の意識が高いアフリカでは、様々なビューティートレンドが生まれてきています。 ガーナではセレブに人気のの出張ヘアサロンサービスが人気で、中央アフリカ共和国では男性ネイリストが活躍するなどジェンダーレスに美容業界が盛りあがりをみせています。 これからもアフリカの様々な街で、新しいムーブメントが起こり、それとともに新しいアートとカルチャーが誕生し、アフリカの感覚で今の時代を映しだしてくれるのでしょう。   中央アフリカでの人気のネイルサロン ビューティー産業で大活躍する、中央アフリカ共和国の首都バンギの男性たち   ■『西アフリカの街』展 開催中  ■ 駅のカフェに、西アフリカがやってきた! 2022年 4月15日(金)~7月15日(金) AM6:00-PM9:00  アートの買える駅のカフェ TOMORROW gallery BECK’S COFFEE SHOP 高田馬場店内 西アフリカの街を彩った看板・ペイント・作家作品など、カフェ店内での展示とオンライン販売    

ヘビの貨幣や装身具 ブルキナファソの民話より

アフリカの多くの国では、ヘビは人間にとって大きな脅威となってきました。 人々は藪の中や倒木の下に潜み森や草の中を見えないように這っているヘビに日々遭遇し、一瞬にして命を失うことも少なくありませんでした。 そのため多くの人々の間でヘビは、非常に近くにいる、生まれ変わる生命力が強く(脱皮)、生き物の命を奪う、恐れるべき動物として神格化されてました。   ブルキナファソ南西からコートジボワール北東に住むロビ(Lobi))・ガン(Gan)の人々は、動物神話に由来するお守りや儀式の対象物を沢山作ってきた民族です。 その中でもヘビのモチーフは、彼らにとって特別な存在です。 ※ガンとロビはとても近い民族で、ガンはロビのサブグループともいわれます。 どちらの民族もガーナ→ブルキナファソ⇔コートジボワールを移動した、分散的に住む民族です。   ロビ・ガンには様々な神話や寓話がありますが、その中にヘビにまつわるガンの寓話があります。 ヘビの腕章と民話 ブルキナファソ南部からコートジボワール北東に住むガンの人々の小さな村では、田植えの忙しい季節は、まだ暗い早朝から家族みんなで農作業を行います。 やっと日が昇り明るくなり、みなで休息をとろうとしたその時、皆はガンの村の酋長の末っ子がいないことに気付きました。 農民たちは手分けして背の高い草や耕されていない畑を必死に探しました。 やがて、茂みのそばに座っている少年を見つけましたが、彼の足に巻きついているものを見て皆が血の気が引きました。 それは毒を持つ蛇パファダーが、その太い体を少年の膝の上に乗せていたからです。     村人たちは蛇を刺激しないようにじっとしていましたが、蛇は大きな声で鳴き、大きな体をふくらませて威嚇しはじめました。 村人は皆危険を感じていました、それはこの蛇は、長い毒牙を瞬く間に突き出して日没には人を殺してまう毒を持っているからです。 酋長は息子に「動くな」と言いながら、他の人たちにゆっくりと後ろに下がるように指示しました。 そして、自分の上腕部に装着した真鍮製の大蛇のバンドを握ると、息子はそれに応えて足首に巻いた同じ様な小さなバンドに触れました。 息子は「彼(ヘビ)も僕のバンドが好きです」と言うと、ヘビは納得したような落ち着いた様子で、小さな三角の頭を少年のバンドに当てました。 すると数分後、ヘビはスルスルと逃げていき、少年は立ち上がり膝を拭き払い無事事なきを得ました。   ヘビ除けとして身に着けられた ロビ・ガンの腕章・腕輪・指輪   この奇跡的な話は瞬く間に村中に広まり、古い伝統は新たな活力とより信仰を呼び起こしたといわれます。 動物は単なるシンボルではなく、現世とあの世をつなぐ媒介者でもあり、神の使いの精霊とされる信仰も多いです。 特にヘビはロビ・ガンの人にとっては上位のトーテムとされています。     ロビ・ガンの人々は真鍮やブロンズ製の作品にヘビのモチーフの装飾y品・護符に加え、象徴的な通貨や祭壇に供える人形なども沢山作りました。 彼らの装飾品はより生き生きとした様式化されたものであり、時には抽象的な要素である複数の頭を持つものもありました。 ガン人はこれらの装飾品を家の魔除けにも使い、戦士やハンターは戦いの際の護符として、身につけていました。 またヘビは神の象徴とされ、蛇が大地に巻きついている姿は大地が崩れないようにする守り神ともいわれます。   信仰が物語を生むのか、それとも物語が信仰を刺激するのか 卵がさきかニワトリが先かのように、その答えは両方の様な気がします。 時折、勇気ある瞬間の物語が、伝統的な民間伝承と融合し、古い信念をより強化し神格化し、時には復活させることもあります。 ガンの酋長の息子の話は、蛇が恐れるべき動物であると同時に、神聖なシンボルであり、人々を守る存在であることを象徴しています。 また、最も危険な敵が最も強力な味方になり得ることを示す西アフリカで生きる知恵を含んだ物語のようにも思われます。 今は錆に覆われたこれらの鉄のオブジェクトは、そんな物語や知恵を視覚的に生活に取り入れた、生きた作品といえそうです。      

西アフリカのお守り「グリグリ」GRIS-GRIS

グリグリGRIS GRISとは? グリグリ(Gris-Gris)は、アフリカを起源とするブードゥー信仰のお守りで、着用者を悪いものから保護したり、幸運をもたらすと信じられるお守り(護符)です。 アフリカ大陸からアメリカ大陸にかけて広い地域で信じられているお守りで、西アフリカから奴隷貿易を通じてハイチを中心としたカリブ海地域に広まり、キリスト教徒融合したヴードゥー教のお守りとして現在も使われています。 祈願の内容も様々で、旅の安全祈願・避妊や懐妊祈願・勝利祈願などいろいろありますが、一番よく身に着けられる理由は旅の安全祈願だそうです。 西アフリカで使用されていた元々のグリグリは、小さな革の袋の中に、ハーブ、オイル、石、骨、髪、爪、その他の身の回りのものを入れ、すべての要素が揃ったら神の名によって祝福されるというお守りで、シャーマンに祈祷してもらい儀式的に身に着けるものとされています。 そして西アフリカでは、11世紀以降のイスラム教の広まりとともに、グリグリの中身はイスラムの精神的指導者から祈祷して貰い記号化したコーランの紙を入れたものが多くなっていきます。 その始まりは、現在のガーナ北部に12世紀に起こったダグボン王国 (Kingdam og Dgbon 11C-20C)から始まったといわれ、 塩やコラの実や奴隷の交易で栄えた王国で、2代目の王様の統治時にイスラム教が正式に採用されたといわれます。 また丁度ダグボン王国が栄えた同時期に、北にモシ王国・さらに北西にバンバラ人が起こした強大なマリ帝国が同時期に栄えました。其々の国がイスラム教を取り入れたことで、13~15世紀に西アフリカに広く民族の壁を越えた民衆の間にもイスラム教が広まり、それとともにグリグリ信仰も広まったといわれます。   コーランの入ったのグリグリ 西アフリカのトゥレグ・フラニ・ウォダベなどの交易や遊牧など移動を生活の生業とする人々は、非常に多くの人達がお守りを身に着ける主観を持っています。 トゥアレグのグリグリは記号化したコーランの入ったもので、何世紀にもわたり培われた西アフリカの民間信仰・イスラム化・トゥアレグのフォルム・北アフリカの信装飾が融合したハイブリットな形が特徴的で、様々な要素がすっきりしたデザインに落とし込まれているところも素晴らしい伝統的な護符です。   また、トゥアレグと近い場所にエリアに住む遊牧民のフラニやウォダベの遊牧民の間では、骨や石や金属などの異素材はグリグリと一緒にジャラジャラつける着け方で、ヴードゥー教の要素をメインに革の中身にコーランを入れる仕様が多いです。     セネガルのグリグリ セネガルではより生活に身近な願掛けお守りとして、グリグリは人々の実生活に幅広く根付いています。 身に着け方もベルト、ブレスレット型など様々で、旅行安全祈願、避妊又は懐妊祈願、レスリングの勝利祈願などの目的で、夫婦やレスラーまで幅広い人々に身に着けられます。最近では有名なマラブー(セネガルでのイスラム教の指導者)に、オンラインで中身を祈願してもらうお守りものあるそうで、有名なマラブーに頼むとが最低料金が200万CFA(約2,950ドル)を超えることもあったり、売れっ子のマラブーは価格が上昇するそうです。 また、懐妊祈願のグリグリは50ドルくらいの最低料金に子供が出来たら成功報酬というパターンもあるようです。 ※セネガルのレスリングの素敵なサイト  https://maptia.com/christianbobst/stories/the-gris-gris-wrestlers-of-senegal   セネガル相撲の動画 in Mali  (いつか、みてみたいです~) 因みに、セネガルのものだけではないのですが、西アフリカで広く見られる革のブレスレットもグリグリの一つ、若しくはグリグリ由来の形のようです。   カリブ地域に広まったヴードゥー教のグリグリ 奴隷貿易とともに西アフリカからハイチを中心としたカリブ地域に広まったヴードゥー教はキリスト教徒融合していきますが、グリグリおお守り文化はまだ色濃く残っています。       まとめ アフリカには3000を超える多くの民族が住み、様々な護符といわれるものが古来より存在してきました。 個々の民族特有の形や意味を持つお守りや願掛け人形もありますが、様々な民族に共通する信仰によって自然の広まったお守りもあります。そこには、人間が決して住み易いとは言えない場所も多いアフリカ大陸の気候や環境の中で、其々の民族の文化を尊重しながらも、多民族が共存しながら互いに幸せを享受し合う相互扶助の精神が表れている様に思います。 アフリカの近代以前の歴史は文字に残ったものは少なかったけれども、様々な民族の関わり合いの中で言葉や風習や技術や形が相互に作用しあい、アフリカ大陸の文化や文明がとてもダイナミックに展開されてきたことが、一つのお守りからも伝わってきます。 アフリカのモノは見ただけで伝わる力強いものも多いですが、それは今までアフリカ大陸で展開されてきたなダイナミックな歴史と文化の文脈が、デザインを通して伝わってきている様にも感じます。 そして、文字を持たなかった地域が多かったが故のアフリカの形やデザインは、逆に、文字を介せずとも伝わる形の表現を創造し、それが今日アフリカ美術の高い評価に繋がるようにも思います。

カラフルに祖先と繋がる精霊の衣裳 エグングン

ヴードゥー教は(Voodoo)は、西アフリカのベナンやカリブ海の島国ハイチやアメリカ南部のニューオーリンズなどで信仰されている民間信仰です。 西アフリカのギニア湾岸、ナイジェリア・ベナン・トーゴ付近が発祥で、今でもヨルバ・フォン・エウェの人々に信仰され、特にベナンでは約40%の人に信仰され、1989年には国の国教に指定されています。 また、ヴードゥー(Voodoo)はカリブの信仰も含めた英語の発音で、西アフリカでは現地ではヴォドォン(Vodun)と呼ばれています。(フォン語での「精霊」の意味) 映画の007「奴らは死ぬのだ Live and Let Die」で登場するような黒魔術を連想させるヴードゥー教は、植民地時代の奴隷貿易で西アフリカからカリブ海地域へ強制連行された人々の信仰とカトリックキリスト教が融合した宗教です。 西アフリカのヴードゥーの儀式の中に鶏や羊などの供物を求め、それを神に捧げたり、床にアルコールなどを注ぐ儀式もありますが、地元の信奉者は魔術や黒魔術とは何の関係もないことを強調しています。     ヴードゥー教の発祥の地とされるベナンのウィダーでは、毎年1月10日に盛大にVodunヴォドン信仰の祭典が最大に行われ、その中のハイライトは「エグングン Egungun」といわれる精霊のパーフォーマスです。 エグングンは、ヨルバ民族の先祖の霊を代表する仮面舞踊家で、祖先と現世の人々を繋ぐ神であり社会の道徳や争いの判決をもたらすなど、人々の絆と生活の安定を司る精霊とされます。 エグングンのパフォーマンスは様々な、体をモチーフで飾られた華やかな布のマントで覆い、顔もタカラガイの殻の仮面で覆われた状態で踊ったり歩いたりします。その時に、観客が彼らの目を見たり触れたりすると、その人に良くないことが起こるといわれます。 ヨルバ民族の先祖の霊を代表する仮面舞踊エグングンの華のやかな衣装は、布を不死の概念として象徴的に捉えるヨルバの思想を表したものといわれます。 ヨルバの社会で布は体を覆い、保護し、美化、敬うだけでなく、宗教的な精神の象徴とされ、葬儀で親せきが集まるときは幾つかの布の束を持ってくる風習があるそうです。布はなくなった人の精神に届く贈り物で、効果でエキゾチックであるほど価値があるとされ、世界中の高価で美しい布が持ち寄られるそうです。 伝統的なヨルバのエグングンの衣裳は、そのような様々な布辺をはぎ合わせたパッチワークの布を、更に繋ぎマントのようにしたもので、ヒダを増やしていくそうです。その作り方は伝統に従うのに対して、デザインや素材は新しいものを取り入れていくそうで、それは過去の伝統や習慣やルールに従いながら現代の革新や変化を組み入れていく、ヨルバの思想を表したものといわれます。 現代のヴードゥーのエグングンの華やかな衣装は衣裳はアップリケやパッチワークが施された美しい衣装です。 見るだけでも十分興味深いですが、こういった衣裳が生まれる背景やストーリーを少しの覗いてみると、見た目はキラキラしていても伝統文化や思想が凝縮されたアート的作品にも思えてきます。 参照:https://risdmuseum.org/manual/445_cloth_as_metaphor_in_egungun_costumes

サバンナで映える、モシ人の青と白の布

ブルキナファソで作られる手織りの青や白の布がよく知られています。 一枚の布は、もともと女性が体に巻きつけて着るもので、男性は腰巻や褌のようなもの、身分によって上着やパンツを仕立てて着ます。   女性達は今では、普段はアフリカンプリントを着ていますが、お祭りや民族のイベント事の時には一緒に着用しているようで、下の写真はモシの村の一例です。   こういった布は、大体、紬が女性、織りが男性によって行われます。 紬ぎは駒のような簡素な道具で紡がれ、織りは細幅の腰機で織られます。 そして、10cm前後の幅で織られた布を繋いで、大きい布を作っていきます。   西アフリカ一帯で広がるこういった綿織布は、モシなどは比較的は早く取り入れられたといわれますが、その起源やいつ頃から普及してきたのかわからない事が多く、特にこの織機に関しては謎が多いです。 布を織って身にまとう、着衣の文化自体はイスラム教の普及とともに、北アフリカから西アフリカに伝わったといわれていますが、北アフリカではこのような細幅の腰機は使わなかったそうです。 川田順三先生によると、この織機は西アフリカ一帯に広がっていますが、組み立て移動式のポータブル仕様なのに、仕組みは高度に出来ているそうです。 また、織機の部位の名称がいろいろな民族の言葉で割と似ている事から、ある程度完成した形や仕組みが、比較的新しく伝播したことがわかるそうです。 新しいといっても日本で綿織物が普及した江戸時代よりかは古く、しかもその様式が変化することなく今でも生活に根差し多く行われているといいます。 この織文化、陶芸や鍛冶鉄などのサバンナで明らかに古いとわかっている工芸と比べると、生贄や職りにまつわる禁忌・儀礼的要素が無いといいます。また、出自による作り手の資格の制限もないようで、そういった事からも比較的新しく生まれた文化といえるそうです。 また、ブルキナファソ・モシの人達はこういった細幅の布を作りを一般的には農業と兼業で行い、乾季から雨季に入る農閑期(3月~6.7月)に行います。 11月に、ワガドゥグから100km程北のモシの村に織機を見に行ったら、織機は跡形もなく解体されていました。     川田順三先生によると、「白」という色はサバンナの自然の中では、カオリン質の白土からできる粉、ニワトリや羊などの毛や羽以外はあまりみあたらないそうです。 ブルキナで綿花が栽培され始めたのはフランスの植民地以降といわれますが、それにより西アフリカの白い布は日常的に作られるようになりました。 今の私たちからみるとなんの変哲のない(何もしていない)布のように見えますが、布自体が西アフリカに普及していなかった時代、当時の人からみると人の手が作りだした「美しいもの」に見えたのではないでしょうか? 柔らかくフカフカしたこの布を触ると、染めずにそのままの抜くの色を衣装にしたモシの気持ちが少し伝わる気がします。     その他、ブルキナにはダフィンと呼ばれるストライプ系の布が有ります。 この布、少し謎だったのですが、長らく放置してあったワガドゥグ博物館で撮ってきた写真をもう一度見直してみると、ヒントが写っていました。 大体この手のストライプの布は、まとめてダフィン(モシ語)と呼ばれているブルキナの西に住む人々(Mrka Bobo Samo/san など)が作っているようです。   細かく見るとストライプにも民族ごとに違いがありました。   博物館( Musée National du Burkina )の展示によると、ブルキナには70近くの民族がいるとのこと、布を作っている民族が2つだけという事はということはないのですが、似ているものも多く、細かくも把握も出来ないという感じです、、、。 織機の謎も含めて、少し深堀すると色々出てくるアフリカ。 後から点と点が繋がる事が多く、またそれも面白い所です。 そして、サバンナの土地に映る白と藍と褐色のコントラストはとても美しいです。   参照:サバンナの博物誌

西アフリカの宝貝カルチャー

このブログを書いた発端は、アフリカの物に限らず、元々は宝貝が付いていた民具や装飾品の貝をわざわざ取りはずして、伝統的なものとして紹介する事に少し疑問があったからです。 最近、綺麗な宝貝が手に入った事もあり、西アフリカと宝貝の事を少しまとめてみました。 アフリカでの宝貝(カウリーシェル・子安貝)は様々な用途で使われてきました。 装飾としては古くより使われてきたのは、コンゴのクバの装身具や、カメルーンの内陸、エチオピア高地のオロモの背負い袋や容器などで、比較的内陸で多湿な限定的な地域だったそうです。内陸といってもカラハリ砂漠などの乾燥した地域では使われなかったそうです。 また、西アフリカでは交易を通してまず通貨として流通していき、その後、様々な装飾にも取り入れられました。     世界最古・最も広く使われた通貨、宝貝 宝貝の利用は紀元前16世紀から始まった古代殷王朝でみつかっています。黄色宝貝がハカに埋葬されており、財産として利用されたといわれます。西アフリカでは、14世紀にマリ帝国に訪れた探検家のイブンバトゥータが、宝貝が通貨として利用されている事を書いています。 17-18世紀に栄えたダホメー王国では、市場で宝貝がないと何も買えなかったそうです。 (ダホメー王国の宝貝についての詳細) 西アフリカで通貨として流通した宝貝は、モルジブ諸島からアフリカ経由でサハラ砂漠を横断し運ばれていったといわれます。 昨年アフリカに行った時ハウサの人が、ナイジェリア北の一部の地域では、貝殻が今でも地域通貨として使われているといっていて、実はその価値はまだ完全に失っていないようです。 宝貝の特徴と西アフリカでの通貨価値 きれいな白い貝殻は、通貨に必要なすべての特性を備えているといわれます。軽量で腐りにくく、取り扱いや輸送が簡単です。その形状は、即座に識別可能で、偽造が困難で、形状もサイズも均一に揃える事が出来て数えやすいです。     西アフリカで宝貝は、長い紐で40個ずつ束まとめられ、多額の支払いの場合、殻はバスケットに積み上げられました。 因みに、8世紀ころにアラブの商隊から西アフリカにもたらされた牛とと宝貝の交換レートは、大体このような感じだったようです。(牛は20世紀までの支払い手段、権力と富の象徴、今でも人気アイテムです。) 但し非常に大きな金額の場合、受け取った宝貝を運搬するのに、かなりの運搬(ポーター)費用が発生し、手に入れた貝を全て運搬費に使うこともあったそうで、そういった大規模の取引は、ハウサなどに代表される長距離交易を行う専門民族が行いました。 牛1頭=貝50束(40本×50束=2,000個) 奴隷一人=17世紀は貝1万個 奴隷の需要は時代とともに高まり、18世紀頃は貝15万個      交易に使われた宝貝 長い間宝貝は西アフリカ全体で流通し、銀貨・砂金・塩・金属のオブジェクト・腕輪のマニラ(Manilla)・布・ビーズなど、他の多くの通貨価値のあるものと共存していました。 また、ヨーロッパ人は、特定のアフリカの民族が小さな貝殻を好んでいることを知り、奴隷・金・象牙の取引に、貝殻の通貨を積極的に使用しました。 西アフリカでは長らく、こういった複数の通貨を使用することが一般的だったので、旧フランス領でフランを導入した後も通貨の統一に抵抗があったようで、しばらく宝貝はその価値を維持しました。 コンゴのクバ地域などでは、1940年代まで現役の通貨として使用されたといわれます。 通貨の併用が当たり前で、統一通貨を拒むあたり、多言語で多民族が共存するアフリカらしさを少し感じてしまいます。   宝貝、西アフリカの村での役割 小さな村では、外部との取引は長老たちの責任と特権でした。村人が生産した商品(過剰な穀物、養蜂からの蜂蜜、布、鍛造金属など)は外部の商人に販売され、収益は村の共通資金に保管されました。 高齢者は保管された通貨を使用して、地域社会のために道具、薬、牛などの必需品を購入しました。 村内での取引の多くは物々交換の形で行われ、通貨は殆ど使わなかったそうです。   宝貝文化はまだまだ続く 現代の西アフリカでは宝貝は通貨として機能していませんが、その文化の痕跡は残っています。ブルキナファソのワガドゥグーでは、貧しい人々にコインと宝貝を混ぜて渡す時があるといわれます。 ガーナの通貨「Cediセディ」は「宝貝」を意味するアカンの言葉で、1955年発行のガーナの20セディのコインには、宝貝が刻まれていました。   また、宝貝は丸みを帯びた曲線は妊婦のお腹を連想させ、生殖能力の象徴とされます。 貝殻のスリットは黒い瞳のように見えることがあり、邪眼を防ぐためにも使用されます。 装身具用のビーズとしてもよく使用され、ジュエリーに組み込んだり、髪に着けたり、彫像や仮面やバスケットを飾ったりします。 また、西アフリカの伝統的文化に欠かせない占いにも良く使用されます。 ドゴンの占い   異文化の価値観 日本ではなじみの薄かった宝貝ですが、地域が変われば価値も変わります。 海が遠い内陸の民族は、アフリカだけでなく宝貝を美しさ・豊かさの象徴として扱ってきました。 今ではただの貝殻という扱いが一般的だと思うのですが、その背景や歴史を知ると、宝貝を使っている様々な民族装飾も一味違って見えてくるかもしれません。     参考文献『貝の道』 参考サイト http://www.nbbmuseum.be/en/2007/01/cowry-shells.htm